JOËLに至る歩み

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5月はフェアトレード月間でした♪
(私事ではありますが、今月は3歳と6歳のお転婆娘たちをワンオペ育児月間でもあったので💦、ブログ投稿がこのタイミングになってしまいました)

5月第2土曜日は、”World Fair Trade Day(世界フェアトレードデー)”でもあり、ここ2年はコロナ禍でイベントなども自粛されていましたが、世界の様々な場所で、フェアトレードのイベントが開催されていました。

そして、ちょうど今月、1年がかりで商品企画、現地と繋がりながら生産してきたアルパカ100%マフラーがやっと手元に届きました。

1年がかりでやっと到着した商品

安くて便利な商品が世の中に溢れる中で、正直手間のかかるフェアトレード事業、遠く離れた作り手と共に活動することの意味をこの機会に綴っておきたいと思います。

■東南アジアでの経験

私は高校生の時、高校での詰込み式教育に勉強の意味を見出せず、悶々と過ごしていました。そんな時、ふと目にした新聞記事でインドで小さくやせ細った女の子が働いていることを知り、社会に対して怒りのような気持ちになったことを今でもよく覚えています。
その後、悶々とした数年のモラトリアム期間を経て、イギリスの大学に開発学という自分が勉強したいと思える学問があることを知り、留学を決めました。

毎日友人を作る余裕もなく課題に四苦八苦していました。そんな中で、イギリスの寒い冬、図書館から寮への帰り道、ふと何故こんなに沢山の研究がなされているのに、世界には貧しく学校へ行けないような子供達が溢れているのか?ずっと世界は変わらないのか、という問いにまた悶々とし、学問の意味を問い続けていました。当時クラスには、アフリカやアジアからの留学生もいましたが、同じように真剣に思い悩み、希望をもって留学してもある種の限界のようなものを感じ、中には中途退学してしまう学生もいました。

そんな中で、イギリスで悶々としていても前に進められないと考え、現場を経験しようと、自分で調べて手紙やメールを送り、何とか児童労働問題解決のために取り組んでいたタイのチェンマイ大学や孤児院、カンボジアではフランスのNGOが運営する孤児院で活動することができました。

(タイの孤児院の子供達)

(カンボジアの孤児院)

孤児院では、経済的な理由から親が育てることが出来ない子、親すら知らない子供達が集まって身を寄せながらつつましく暮らしていました。心が荒れている子もいて、当時、私はその気持ちを受け入れる器がなく、眠れない夜を過ごしながらの活動でした。

子供は、皆正直です。

タイでは「どうせ貴女、イギリスに帰ってしまうんでしょ」という言葉を投げかけられたこと、今でもよく覚えています。

また、カンボジアでは、車で移動していると、車にストリートチルドレンが水を売ろうと駆け寄ってきて、彼らの勢いにただただ圧倒され大きな衝撃を受けました。
なぜこんなことになっているのか、この子たちの人生の機会を奪うものは何なのか?ただただ現実を目の前に失望することしか出来ませんでした。

その後、現地に根差した開発の在り方を探求しようとベトナムの大学院へ留学しました。しかし、ベトナムの大学院では主にエリートたちが学んでおり、貧困問題について真剣に議論する機会もないまま、東南アジアにやり残したこと、気持ちを抱えたまま、イギリスに戻ることになりました。

そして、開発学を学び続けるために、オランダの大学院へ入学しました。

(オランダ大学院コースの一環として国連機関での講義)

オランダでも、学問を経済格差、貧困の課題にどう役に立てるのか?不安な気持ちを抱えたまま、課題に追われる日々を過ごしていました。
そして、オランダの大学院卒業後、外務省の国際協力局で開発援助の仕事に関わらせて頂きました。実際に政府開発援助がどのように行われているのかを知ることが出来たことは、貴重な経験でした。

一方で、援助自体が政治に大きく左右される現実も知り、人のエンパワメントにもっと向き合う仕事をしたいという想いが生まれ、一度国際協力の仕事を離れようと考え、大手自動車会社の人財育成をする部署で働きました。グローバルな風土の職場で、様々な国籍の社員の育成を目的としたグローバルトレーニングを担当させて頂き、やりがいを見出していました。国際協力における様々な矛盾や葛藤に一旦距離を置くことが出来たものの、ストリートチルドレンの姿を忘れることはありませんでした。

その後、結婚し、家族の仕事の都合でメキシコに住むことになりました。
そこで目にした光景は、そんな私の心を強く揺さぶりました。中南米で目の当たりにした深刻な格差社会、毎朝目にする路上で生き抜く母と子、彼女たちには見向きもせずに忙しく通勤する人々の姿に何とも言えない気持ちになりました。

自分の中で、東南アジアの至る所で目にした光景と重ねていました。人のエンパワメントから生まれる開発を目指すことは出来ないかという想いから、帰国後2014年に、ラテンアメリカ最貧国のボリビア現地女性達によるフェアトレード商品を販売するJOËLを起業することにしました。

その後、起業してまだ安定した販路すら開拓できないまま、長女を出産しました。当時0歳だった娘をおんぶしながら、営業活動をしていました。今でこそ、SDGsの浸透による一定の認知がありますが、起業当時は「フェアトレード」という言葉が通じないことも少なくなく、遠い国の商品を販売することの意義に共感していただくことの難しさを痛感しました。

■活動をする理由

冒頭に述べた問い、「なぜ手間のかかるフェアトレード事業を行っているのか」に戻ると、東南アジアやラテンアメリカで出会ったストリートで生き抜く子供達に向かって仕事をしています。

今年は、事業を続けて8年目になります。
これまで色んなことがありました。

資本主義、競争市場、大量生産大量消費による既存のシステムに問いかけを投げかけるような事業で在りたいと思う一方、実際には「売れる商品」づくりに必要な資金が不足する小さな事業は継続していくことは難しく、資本主義経済に参画できた者だけが生き残るという課題は依然残り、環境にも人にも持続可能な取り組みを継続していくには、貧困や環境問題を生じさせる社会経済システムの問題に踏み込んだ取り組みが必要で、起業当初からこの葛藤はあります。

また、東南アジアやラテンアメリカで目にしたあの状況は何故そうなっているのか?海外留学中に抱えていた問いにまだ向き合い切れていない、それを伝えられない。そんな思いがずっとありました。

人間開発や環境保護を軸とした経済の実現のためには、実践のみならず学術的知見をもとに国際社会と協働する施策について研究する必要があると考え、子育ても事業もある中で悩みましたが、今年度、東京大学大学院「人間の安全保障プログラム」博士課程に入学しました。

格差が広がる世界の中で、生まれた国や人種に関わらず誰にとっても一度きりのかけがえのない人生、愛に満たされ自信をもって生きることができる世界を、という願いをもって活動を続けられたらと思っています。

商品は、直接私の手元に届き、販売することが女性達の仕事の機会創出、子どもたちへの教育機会へと繋がっています。

(作り手の息子さん・リチャード君。フェアトレード団体でお母さんが働くようになり、学校に行けるように)

今回、コロナ禍の影響で作り手の作業がストップしてしまったり紆余曲折しながらも、仲間と共に何とか商品として仕上げることができた、その想いが込められたマフラーを是非楽しみにしていただけたら嬉しいです。

*先日、同じ志をもってエシカルな情報発信をされている「エシカルカフェ」さんが、JOËLの取り組みについて記事を掲載してくださいました。

こちらも是非ご覧いただけたら幸いです。

https://ethical-cafe.com/media/fairtrade-accessories-joel/